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ご由緒

浪華名所獨案内

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当神社は垂仁天皇18年(西暦 紀元前12年)の秋に創祀されたと伝えられ用明天皇3年に改築。聖徳太子が仏教受容問題で物部守屋公と争われた際、この玉作岡に陣を敷き「我に勝を与えるならこの栗の白木の箸に枝葉を生じさせ給え」と祈願されたところ、のちに枝葉が生じ、この戦いも無事に終わったといわれています。

 

その後、天正4年の兵乱により本・末社、旧記等ことごとく焼失しましたが、慶長8年に豊臣秀頼公により社殿、高殿(舞台)が再建されました。

大坂の陣で、当地は再び戦地となり被害をうけましたが、元和5年に徳川幕府の大坂城代内藤紀伊守を始め、氏子・崇敬者の寄進を以って再建。別称は豊津稲荷神社とも呼ばれ豊臣・徳川時代を通じ「大坂城の鎮守神」として崇敬されたことが、史料に残っています。

 

しかし、文久3年11月の大坂大火(新町焼)を経て、明治4年氏子・崇敬者により再建。

国家管理時代の社格は府社となり、その後昭和20年6月1日の大東亜戦争(第二次世界大戦)の戦禍を受けましたが、戦後は新憲法のもと宗教法人(神社本庁)玉造稲荷神社となりました。

 

社殿は昭和29年10月15日にご遷座。昭和51年5月には、皇室より三笠宮寬仁親王殿下をお迎えし創祀二千年祭奉祝事業達成祈願祭を盛大に営み、平成元年6月創祀二千年祭を挙行し、玉造稲荷神社分社を大阪市中央区上町1丁目に分祠致しました。

平成27年8月20日に三韓館とゆかりある松ノ木大神、二吉大神、若松大神(大阪市中央区玉造2-19に鎮座)、平成30年9月26日に豆市大神(大阪市中央区上町C番)を合祀し、令和2年春には、コロナウィルスの終息と民の安全を願い、江戸時代からゆかりのある梅薬師・道祖神を祭祀し、現在に至っております。

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