難波・玉造について

日本書紀などの文献から難波・玉造を探る

『日本書紀』の仁賢天皇六年九月の条には、興味深い説話が記述されている。
日鷹吉士(ひたかのきし)が高句麗へ派遣された後、飽田女(あきため)は難波の御津(みつ)で「私の母にとってもせ(兄)であり、私にとっても
せ(夫)である。やさしいわが夫はああ」と泣き悲しんだという。

その哭声は断腸の想いにみちて、人びとの胸にひびいた。
菱城邑(ひしきむら)(大鳥群菱木のあたりか)の鹿父(かそそ)が飽田女に「どうしてそのように泣き悲しむこと、はなはだしいのか」と問うた。飽田女は「二重の悲しみです。察してください」と答えた。
鹿父は「わかりました」という。朋友はその真意を悟らず、「どうしてわかるのか」とたずねた。
鹿父はそれに答えて、つぎのように語ったという。

「難波の玉作部鯽魚女(たまつくりべのふなめ)が韓(から)の白水郎はたけあまのはたけ)にとついで哭女(なくめ)を生んだ。
その哭女が住道(すみぢ)の山杵(やまき)にとついで飽田女を生んだ。そして韓の白水朗はたけとその娘の哭女はすでになくなった。


ところが住道の山杵が玉作部鯽魚女を姧して麁寸(あらき)を生み、その麁寸が飽田女をめとった。
飽田女にとって麁寸は夫である。日鷹吉士が高句麗へ派遣されたのに従って麁寸は高句麗へ旅だった。したがって飽田女はこのように泣き悲しむのだ」と。

 

『日本書紀』には飽田女をめぐる別伝を載せているが、その大意にかわりはない。その複雑な婚姻関係を整理すると、左のようになる。

この系譜をみればわかるように、麁寸は飽田女にとってせ(夫)であり哭女にとってのせ(異父同母兄弟)となる。

こうしたまざりあった間柄にも、古代の婚姻の一齣がみいだされるが、高句麗に派遣されたとする日鷹吉士とは難波吉士とのつながりをもつ紀伊日高(鷹)の吉士であり渡来系の氏族であって、韓の白水郎の伝承と共に注目すべきである。

『日本書紀』に物語られる難波の玉作部の伝承は、けっして虚構ではない。説話それじたいにはさらに検討すべき余地もあるが、難波に

玉作部が存在したことはたしかであった。玉作部や玉作り遺跡の分布は、出雲をはじめとして各地にある。たとえば玉作神社・玉祖神社・

玉造郷・玉祖郷などを、『風土記』・『延喜式』・『和名類聚抄』などに記載するもののみに限っても、西から東へ、周防・土佐・出雲・河内・近江・

駿河・伊豆・下総・陸奥などにおよんでいる。

玉作り遺跡はこのほかにもかなりあって、加賀・越前・越中・越後など、北陸地域にも分布する。

 

玉作りの伝統は早くから形づくられ、玉造稲荷神社の玉作り伝承も、難波の玉作部の存在と関連して軽視するわけにはいかない。

難波から大和への古道には、大坂道(穴虫越え)・当麻道(竹内峠越え)などさまざまなコースがあったが、暗峠・奈良街道のルートもみおとせない。

中臣氏の大和と河内を結ぶ史脈の要路であり行基が活躍した行基みちのひとつであった。いわゆる機内のアガタ制ともかかわりをもった古道であった。

 

難波の玉作部、河内の玉作部などとともに関連を保有した古道のなかに、暗峠・奈良街道もある。玉造稲荷神社に難波・玉造資料館が

造立されたのも、歴史的に意義深い。

 

上田 正昭 京都大学名誉教授 著

 

当神社発行「まがたま」誌より抜粋

 

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